鳥越八幡宮は、政盛の養子定盛 (山形城主鳥居忠政の子)が郊外の荒小屋で鷹狩りをした時、 愛鷹に逃げられ八幡社の助けを借りて鷹をとり戻したと同社の縁起書に記されています。新庄古老覚書によると、定盛は寛永15年(1638)にこのお礼として同社を鳥越楯跡に奉還して、壮麗な社殿を営んだそうです。これが現在に残っている同社本殿ですが、少し遅れて元禄4年(1691)に拝殿が造営され、一層壮厳さを増しました。
 同社には創建時の棟札が蔵され、 「新庄古老覚書」には、元禄時代の儒者川井藤右衛門(禄高150石の家臣)が、元禄4年(1691)に記した鳥越八幡宮の縁起書にも載せられています。

 鳥越八幡宮の場所は、戦国時代の武将鳥越氏が住した楯跡です。ここからは城下を一望のもとに収めることができ、立地や創建の時代から見ても、城下の東南(巽)の方角を鎮める趣旨で、鳥越八幡宮がここにおかれたことは言うまでもありません。 そういう意味で、これも政盛の壮大な城下町構想の一環であったということができます。
 なお昔は、荒小屋の八幡様は10丁ほど西に鎮座していました。 旧八幡について、縁起書では 「今の荒小屋八幡なり、其時の社地は今の社より西の中野にこぶしの木有之所にて御座候と也、今海道はたの社へは近代移し候事之由」 と記しています。