藩政前期の村高

 鳥越村は、南北朝時代に山形に入ってきた北朝方の武将斯波氏から追われた東根城主小田島氏が居城した鳥越城がある村です。一説には小田島氏がこの城を拠点として周辺部を開発しました。「新たに開かれた村」の意味から「新壮(庄)」と呼ばれるようになったといいます。後に、小田島氏(鳥越氏)は、清水城主清水氏に従いその家老を勤めました。戸沢氏入部以前の羽州街道は、鳥越から東山の山麓を縫って北に進み、荻野・二枚橋の方に至っていたといいます。鳥越村がこの頃に宿場町の役目を担っていたのか、「梅津政景日記」には、慶長19年(1614)の正月29日に彼が鳥越村に宿泊したとあります。戸沢氏入封時の鳥越村の村高は1112石余ですが、生保3年(1646)にはこの他に新田分として70石余が算定されました。そしてさらに、宝永6年(1709)には1218石余になっています。鳥越村の枝郷としては、谷地・市野々・休場・兎額・柏木山・大平村の6ヶ村を挙げています。「堂社」としては八幡・弥陀堂・七所明神・月山・熊野など、「寺院・修験」には如法寺・東宝院・知観院(ともに葉山派の修験)が記されています。


鳥越村の伝承

 元和8年(1622)に、鳥越氏は山形最上氏の改易に伴い近江へ流されました。休場村は源義経が兄の頼朝の怒りにふれ、奥州平泉に落ち延びる途中に休んだことが村名の起源になっていますが、今も村内に義経を祀った判官神社があります。片岡理兵衛は方々の新田開発に敏腕を振るったといわれ、上大渕(鮎川村)辺でも「理兵衛堰」の名が残っています。


藩政後期の概況

 「吉村本新庄領村鑑」による鳥越村の概況は、天明3年(1783)の村高は875石余、反別は94町歩余、年貢高は1177俵余です。祖率は本新田を平均すると53パーセントで、石盛は本田新田平均1石6升4合になります。文化元年(1804)には村高880石、反別109町余、年貢高1185俵と、少し増加しています。文化12年の馬の飼育数は48疋とあります。